天才を100%理解しようとしないほうがいい

天才と秀才、共に頭がいい人の呼称だけど微妙にその使われ方が違う。私なりの解釈としては天才のほうがより稀有な存在で扱いが上。 定義としては、、、

天才とは人が考えつかない事を考え付く人 (あるいは人が普通できない事ができる人)

かなと思う。


我々庶民は天才の考えつく事を知りたい。理解したい。。。僕もそうだった。たいていの場合みんな天才が好きだ。お近づきになりたい。


天才とは人が考えつかない事を考え付く人だ。


天才が考えつくことを理解するには骨が折れることが多い。1つ2つならいい。がんばって理解しようと努力できる。でもそれが100や200となると???


ところで、人が考え付かない事って全て正しいのか?当然そんなことあるわけない。でも目新しさに目を奪われて、天才の言葉がすべて正しいかのような錯覚に陥りやすいものだ。


それでも100%理解しようとする人は後を絶たず、そして不幸な結果を招きやすいようだ。

天才すごい!真理なり!!と感動する⇒その天才を信じる⇒理解できない事のほうが多くなる⇒理解ができない自分を否定し始める⇒苦しむ。

最終的に自分に対してどう評価を下すかによるが、もし自我が勝った場合は。。。

自我の勝利⇒自我を追い詰めた対象を否定⇒苦しんだ分さらに強く否定⇒対象物への憎悪

なるほど。。。周りを見ていて、なんでこうなるのかなぁと昔はわからなかったものが、こう解釈すると結構すんなり理解できるようになった。(ちなみに自我が負けた場合のその人の人生はもっと悲惨な結末になると思う)



僕は天才を100%理解しようとするのをやめてみようと思う。


天才の考えを完全に理解してそれをすべて実現したら人類は次のレベルにはやく到達できるのではないかと考えていたけど。。。


天才とは人が考えつかない事を考え付く人だ。


人が考えない内容にはそれなりに理由があるのかも。『現実性がないからその発想がでない=現実的ではない=現実化不可能』というこなのかもしれない。だからこそ、そんな考えだからこそ、そんな途方もない考えだけに人を魅了する事ができるという側面があるのかなぁ。


僕は全てを理解しようと試みたけど、悲しいけど僕にはそこまでの能力はないようだ。


君ならどうする?