六日目 6月1日 金曜日

六日目の朝

朝食前の内観の時点ですぐに前日の不安は吹き飛んだ。「嘘と盗み」に対する自分を調べはじめたところ早速成果が得られたのだ。幼少の頃の嘘について具体例を並べて行くと、今現在の私の人格が嘘の蓄積がたくさん混じった基盤の上に成り立っている事に気が付くことができた。しかも恐ろしいことに、その中身は嘘と真実がきちんと分類されていたのに、今では見分けがつかなくなっているのだ。


内観をやっていてつくづく感じるのは「過去が現在をつくる」という事。さらに興味深いのは、その過去の嘘や不本意な行動が精神的圧迫を及ぼし、物理的に体内に影響を及ぼしているという事。ストレスで胃に穴が開くのはそういう事なのだろう。


私は知らず知らずのうちに自分を騙していたのだ、それでは真っ直ぐ進めるはずもない。体に大きな負担をかけて自分が望まない方向に崖をよじ登っていたとしても、気がつかなかったのであろう。


お天道様に顔向けできる行いをしていれば、心も体も健康で幸せな生活をすごす事ができる。その逆の行いをしていれば逆の結果になってしまう。これこそが道徳なのだろう。宗教とは道徳を理解させる、もしくは理解できなくとも道徳の道に沿って歩けるようにする為の簡単ナビみたいなものなのではなかろうか。


ここにきて、「嘘は自分を傷つける」という意味をようやく理解できた気がする。


こうなってくると内観をするのが楽しくて仕方がない。「嘘と盗み」を掘り下げればやるだけ自分の悪いところが見えてくる。知らない自分を発見していくのは単純に楽しい。当然自己嫌悪にも陥るのだが、その後の爽快感と未来に対する目標と希望がはっきり見えてくるので、相殺して余りある気持ちよさがある。

そして懺悔へ

「嘘と盗み」、嘘からは私は自分の欠点を学び、盗みからは懺悔を学ぶことができた。ここにきてようやく私は激しく自分を責め、悔い改める気持ちになれた。心の底からの懺悔の気持ちにたどり着けたのである。私は卑しく醜い人間でとても見栄っ張りであると自認した。その時にもう盗みはすまい、見栄を張るまいと深く深く反省した。そして懺悔の意味を知ったのです。


懺悔は「告白することにより罪を許してもらう」という行為以上に、自ら深く反省して自らの愚かさを知り、自分を磨くことなのですね。反省が深ければ深いほど、自分が磨かれます。だって浅い反省だったら次の日にはもう反省したことも忘れてしまいますものね。(このエントリーにある脳の話で、間脳に響かせるという話はここにつながるのですね。)


「肝に銘ずる」という言葉の意味を始めて知った思いです。



ようやく今まで感じていた懺悔に対する違和感は解消しました。より自分を磨きたいという想いが、自らを深く反省させてあのような激しい懺悔となるのだなと自分なりに納得できました。ありがとうございます。


振り返ってみて

私はなぜこれほどまでに向上心が強いのか自分で理解できていなかった。そして何がしたいのか何をなすべきなのかも分かっていなかった。とにかく人からちやほやされたかったし、人が羨むような生活をしたかったし、人からすごいなぁと尊敬の眼差しでみられたかった。


すべて人からどう思われるかという事ばかりなんですね。自分で判断できる人物像を持っていないからなんでしょうね。



今までは”成功するために”常に5年後、10年後の自分を設定し、実現するべく様々な努力をしてきた。その目標は金額や役職、仕事の内容ばかりで、人間の中身についての項目はまったくなかった。今は違う、私の目標は、「正直で、素直で、強く、感謝の心に満ち、謙虚な人」だ。これからは5年後も10年後も100年後も同じ目標を掲げ続けて行く。



「正直で、素直で、強く、感謝の心に満ち、謙虚な人」なんだが小学校低学年の子供向けの言葉に聞こえるが、実はなかなか贅沢山盛りな目標なんです。私は一生をかけ、この大目標の頂上に向け、途方もない大きな山を登り続けていきます。